TM金沢センターのTeacher:斎藤 晶子です。
今回は友人を介して知り合ったゼンタングル認定講師(CZT)の山田美幸さんと、瞑想を軸に「TM」と「ゼンタングル」それぞれの視点からいろいろなことを話してきました。
進行役はキャリアコンサルティングのほか、キャリア形成支援カウンセラー、女性起業支援、各種研修講師など幅広く活躍しているアンカーウーマン金澤の代表・高木 眞澄さんにお願いしました。
それぞれの出会いと始まり
お二人に、まずは「TM、超越瞑想」とは?「ゼンタングル」とは?とお伺いします。
「TM、超越瞑想」(以下、TM瞑想)というのは、一言でいうと私たちみんなが持っているものの「お手入れ」です。
私がよく例えるのは「歯磨き」。歯磨きって大人の私たちにはごくごく当たり前のことですが、小さな子どもはその価値がわかりません。しかし、価値がわかったらやらずにはいられないもの。
簡単なのに毎日やる必要があり、価値のあるもの。実は「TM瞑想」とはそういうものです。
「ゼンタングル」は一言でいうと描く瞑想です。
ペンを持って線が書ければ誰でも描けるパターンアートです。でも出来上がってみると、とても複雑で素敵。
これを描くために特別な技術は必要なくて、それこそ本当に誰でもできて、ちょっとした気分転換にもなる。意外にハードルはすごく低い。
絵を描くとなると、とてもハードルが高いイメージですが、絵が描ける描けないということは関係なくて、誰でもアーティスティックなことが体験できる。それが大きな特徴の一つです。
「TM瞑想」の歯磨き的に簡単というところと、「ゼンタングル」の線が書ければ誰でもできるというところ。特別なことではなく、ごくごく身近に感じられることがとても似ているんですね。
次に始められたきっかけを教えてください。
「TM瞑想」は、それまで私が思っていた瞑想とは違いました。「人間の存在とは何ぞや?と静かに考える時間」ではなく、そもそも考える大元であるところ、「何ぞや?」等のいろいろな知識を「理解する部分の手入れ」なんだ。だから、ここさえ手入れすれば何でもわかる。先ほどの歯磨きの例で言えば、歯さえ手入れすれば食べ物が食べられるんだ、ということに近かった。そして簡単だった。
巷に溢れている瞑想と同じ「瞑想」という名前なのに、その考え方も取り組み方も意味合いも何故こんなに違うのかと驚きました。これは人間にカスタマイズされるものだったのか!って。
人間にカスタマイズ、ってすごい。
私はよく言うのですが、「TM瞑想」は、得るもの、取りに行くものではなくて既に「ある」もの。ただその実際の手入れ法というか、アクセス法を知らなかっただけ。「歯磨き」という方法を知れば誰でもできる。そして簡単にできる。じゃあ、「歯磨き」の方法をお知らせするお姉さんになろう。「歯磨き」が必要ない人はいないから。簡単だけど完全なメソッドだから。というのがきっかけです。
私の場合は、書店でたまたま「ゼンタングル」の本を見つけたことがきっかけです。なんとなく手にとって面白そうだなと。それで、自分の気分転換用に購入してやってみた。ただ、本に詳しくは書いてあるけど、これで合ってるのかな?みたいな不安要素はありました。本だけだと疑問がいっぱい。で、誰か教えてくれる人はいないかなと探したら、たまたま日本人で初めて認定講師になった人が、普段アメリカに住んでいるのに、これもたまたま日本に帰ってきていてワークショップをやっていた。しかもそれが大阪だったから、近いし日帰りできるなと。もちろん受講しに行きました。ちゃんと習って、お!意外と奥が深いぞ!と。
そのワークショップには、老若男女いろんな人が参加していました。誰でも関係ない、やりたい人は誰でもできるんだと思いました。そこで先生から、アメリカのセミナーを受講すれば認定講師になれて、教えることができると聞きました。その時はピンと来なかったのですが、私がゼンタングルを描くのを知った友人から教えて欲しい!と言われて初めて、教える資格の必要性を感じました。タイミングよくアメリカ本社のサイトでセミナーの募集をしている事を知り、ダメもとでメールを送ってみたら、大丈夫!と返事が来て。じゃあお願いします!と。そこから急いでパスポートとってホテルとって航空券とって(笑)。
最初から講師になろうと思っていたわけではなくて、流れで。気が付いたらアメリカにいて、認定講師になって帰ってきました。絶対的な明確な目標があって講師になったわけではないんです。
でも、せっかく認定講師になったからワークショップもやってみようかと。そうしてやってる内に、参加している人の作品がみんな違うことにハッとしました。同じ説明、同じ講義なのに、書き上がりが絶対みんな違う。参加者の皆さんも、お互いの作品を見て、おお!違う!となる。その反応が面白くて、楽しくて。
お二人が今回コラボレーションされた理由は?
元々知り合いではあったのですが、以前、同じイベントに参加してご一緒したことがきっかけです。ゼンタングルは描く瞑想なのに、私は瞑想を知らなかった。これが瞑想なのかな?言語化して説明するのは難しいなと思っていて。それで、斎藤先生に色々伺って。お話をするうちに、一緒にやったら面白いかも!ということになりました。
瞑想と言ってはいるけど瞑想がわからないという人はたくさんいます。一般的に瞑想は、心が鎮まるものだと言われています。ですが、瞑想をやっても心が鎮まらない、むしろザワザワして来る。だから瞑想ができていないと思い込んでわからなくなっている人が多いんですね。最初にみゆきさんに瞑想について訊かれた時もそうでした。
「TM瞑想」は、創造性が生まれるところの「お手入れ」です。創造性の実践はアートですけれど、実は生きていることすべてが創造性そのもの。なのでアーティストは、創造性を実感することを体験として得やすいかも知れません。つまり、創造性を使っている状態が瞑想であり、その大元をお手入れするのがTM瞑想。だけど創造性の部分が誰にでもあるのよと言われても実感できないというか、よくわからない。その点、「ゼンタングル」は、アーティストではなくても、創造性を使ってそれを表層させるひとつの方法ではないかと思いました。
それを聞いて、ああ座禅的なもの、座禅的な「静」じゃなくていいんだ。と腑に落ちました。
ふたつが交わるところに見えるもの
二人の瞑想的な、概念的なところと使っているところの交わり的な?
切っても切り離せないところなんです。お手入れしてるのか使っているのか、その区別ができないといえばできないので。
ゼンタングルとして、行為として方法として技術として使っている状態としてはここにあるけど、これはやっているところに
ゼンタングルの特徴は、技術的なところ。描くという行為だけれど、絵と違うのは、絵はどちらかというとこう描こうという青写真を思い描いてから描くけれど、ゼンタングルは青写真を描かなくて、描いている工程そのものに主眼を置いているから、考えをおいていないところになんか出来上がった。何か考えながらやっている訳ではない。
それが瞑想チック。工程というところが。
お手入れ方法を知っている人が、使っている状態ってどうなんだろう?と思いゼンタングルを描いてみる。それでゼンタングル描いてる人が、これってどこが瞑想?って思ったときに逆にそういうことがわかると、なるほどね!ってなるわけですね。
そうすると、まさに腑に落ちやすい。
なるほど。これが、似ているところ、違うところ。重なり合う部分もありますよね。
垂直な感じですかね。並べてみて違う、ということではなくて、同じ一軒の家で一階と二階に別れているような感じ。
それを階段使って行ったり来たりするような?
そう。隣り合った家じゃないんですよ。
その階段がポイントかしら?
いわゆる芸術的なことをやってなくとも、日々創造性は使っている。人間だから。100年前と違う生活をしているのは創造性があるからですよね。創造性を使って変えてきた。だけど、器用不器用もあることは事実。
何より、ゼンタングルは美しい。メソッドとして美しい。満足感がある。そして完成度が高いと感じています。
例え不器用であったとしても、大人は子どもの塗り絵じゃ満足できない。より複雑にした大人の塗り絵が必要。そうでなければ満足しないし、より複雑さを求める。その点、ゼンタングルは、形が自分から出てきますよね。
しかも自分でも予期しない方向に展開して行ってしまう。塗り絵だと、この枠を綺麗に塗る。どうしても枠がある。枠がないのがゼンタングル。だから自由で面白い。
枠っていうのは瞑想でも重要で、枠の強弱や、瞑想をやりに来る人にも、枠を取り外しなさいとか枠がある。ゼンタングルは、確かにメソッドとしてある割には枠がない。それでいて満足度が高いし、美しいものへと導いてくれる。上から目線で申し訳ないけれど、だから私が私なりに選んだというか。
面白いですね。枠とか美とか。現象を表現しても美しくないとか。すごく面白い。
それぞれの効果とは?
効果的なところはどうですか?効果がある?ない?
私はあると思う。瞑想中は何も考えないというわけじゃない。人は色々考えちゃうんです。TM瞑想は人間は考えるという、人間の本質を使っている。使っているので、雑念がガンガン出てくるのがTM瞑想。だから終わったらスッキリするという人がいるのも、その通りで。それをもう少し枠をつけて意図的にやる時間、何かをやりながら意図的に考える時間としてゼンタングルは最適かな。瞑想は、意図的じゃないけどガンガン考える。現象的に考えが出てきてしまう。
さっきの現象のお話に例えると、雑念がわーっと出てきている状態が現象で、意図的にゼンタングルというメソッドを使ってやるところに美しさを見出しているということですね?
そうですね。創造性を具体的に使う感じ。そしてそれは千差万別で無限です。そうして私は気づいたわけです。色々ある中でゼンタングルはなかなかいいぞと。
もともと絵の才能があったり音楽やる人はそれをやればいい。だけど、それができないという人、例えば不器用な人でカッコつけたい人ほど、これをやればいい!
だって、できないくせにダサいことはやりたくないんですもん(笑)。
使う部分においてもね、使うを平面で考えると、この部分とこの部分は違う的だけれど、空間で考えたらここもここも同じ。平面で考えると違う。
球体って感じですかね。ボールみたいな。弾くとかじゃなくて、融合できる球体。ある意味、多面的な。
それで言えば、あの化学のモデル図みたいになってくる。多分そうかな。平面でもなくて、粒々でもなくて「場」。場所。
分けられるものではないけど分かれている、個別だけれども統合している。
それは瞑想してると教えられなくてもわかる。わかるんだけど、私たちは統合の中の多様、多様の中の統合を生きているよりも、同じことを言うのに、みんな違うことを描いている。それをシンプルに体験する。それでいてそれがとてもかっこいい。
子どもと一緒にやっても優劣がない。違いはあるんだけど優劣はない。
それが正しいとかダメだとか評価の対象ではなくて、出てきたもの全てがオールオッケーみたいな感じでしょうか。
年齢的に低いとか高いとか、男女の別とかではない、みたいなことを、私たちは普段から散々言ってるじゃないですか。その、みんな違ってみんないい、を実感するというか。多様性とか同一性とかTM瞑想でも色々言ってます。みんな知ってるつもりでいます。
それでも、ゼンタングルもいろんな人ができるからいいと思う。
ゼンタングルはアーティスティックな人がやっても面白いという面があると思うんです。
やってるメソッドの完成度がTM瞑想とゼンタングルの共通点かも。
ゼンタングルをやってる難しさとかは?
教えていると、描いてる人の様子を客観的に見れるのだけど、これが瞑想状態なのかどうなのかはわからない。自分一人でやってるときは気分転換でもあるのだけれど、やっぱり知識がついてきたりとか描くのに慣れてくると欲が発生する。綺麗なものを書きたい、面白いものを描きたいみたいな。
意図が入るみたいな?
そうそう。純粋じゃないというか。「こうしようかな」とか雑念じゃないけど、やってくる。もちろん間違いではないし、悪いわけではないんだけど、本質に立ち返ると違うかなと。でもそれもそれで面白いとも思う、そこのバランス?
そのアーティスティックな方を追求して行くと、それはゼンタングルというよりアートになってしまうのかなと。でも使っている技法はゼンタングル、その微妙な矛盾が自分の中にある。ワークショップでやってると、受講者は純粋にそれを楽しんでいるから、そこでリセットされる部分はあるんだけど、そこのバランスかな?
長くやってると欲が出てくる。
みゆきさんに技術があるからだね。もともとテクニックがあるからというのもあるよね。
もともと美術をやっていた部分を使ってやりそうになる。やってダメなわけではないけれど、それをやると本来リラックスするはずのゼンタングルで疲れてしまう、という相反するものの中でぐっちゃぐちゃになる。
リラックスするはずなのに疲れる。
矛盾するんだけどね。(笑)
疲れる。
それと、自分の体調とか乗ってる時は楽しいんだよね。でもそこで絵画的な欲が出てくると、もっと思い通りに綺麗になるはずだったのにならなかったな、という風になると何かこう、落ちる。それはゼンタングルのもともとの定義とちょっと違うかな。
意図してやると「欲」が視える
私は、ゼンタングルって究極のアウトプットじゃないかなと思っていて。皆んな、いっぱいインプットするじゃないですか。みんなそれぞれの立場でね。それぞれのものを。それを、アウトプットしようと意図してやるか、全然そんなことは関係なしに、例えばゼンタングルというメソッドをたまたまやってみたら、自分の中の今までの意識もしていないインプットの中から、ゼンタングルという形に乗ってアウトプットされた。そんな風に思うんです。
確かにそこに意図があると、ああしてやろうこうしてやろう、あれかこうかと、逆にあの時に習ったこれだとか、あの時に読んだこれだとか見たこれだとか、いろんなことを総動員しようとすると、なんかやらしい疲労感みたいな。純粋に出し切った時の疲労感とはちょっと違うかなと。
多分違う。そこは欲かな。多分。誰かに「すごいでしょ?」と見せたくなる欲が入ってる。
承認されたいみたいな?
こうしてやろうかな、ああしてやろうかなと思ってやると、それが付随してくるかな。
いま聞いてて思った。私はTM瞑想をやっていてからのゼンタングルだから、出すっていうのには慣れている。雑念が出るのに慣れている、つまり雑念を出す作業ね。出しているのを形にできる。みゆきさんの場合は、出す作業の時に雑念をくっつけるという感じがあって、だから、形じゃない究極の瞑想。だから抽象的なお手入れ法が要るんだなと思いました。
瞑想をやることを断る人は、自分はギターを弾くことがストレス解消になるとか、音楽だとか、こういうことをやっているから、そこでリセットされるからと言うけど、話を聞いていると、やっぱりそれは行為であって、その行為によって自分の中から出てくるものに瞑想で出てくるものもそこでぐちゃぐちゃっとくっついている。元に出てくるものに、何も生み出さない、形に徹しない時間、歯磨きみたいなそういう時間として分けてる、やっぱり違うというか、そう思うと2階と1階ていうのは面白かったなと。
お二人どちらからも出てくる言葉に「意図的」っていうのがあって、「意図」ね。
自分の中からぐじゃぐじゃ出すのがTM瞑想で、これは普段のお手入れだから、ぐじゃぐじゃ出てくるのがいい。でもそればっかりでは分かりにくいから意図的にメソッド使う。ところがゼンタングル的見方をするとそうではなくてというところがあって、その、そこに意図が、うまくやろうとかこうしてやろうとかいう意図が入るとかえってうまくいかない。そこはどうしても欲だったり承認欲求だったりするんだろうな。その二つを見た時に、これは深いなと。
私もその意図ってところはすごく深いと思った。そもそもそういう意図はないんですよ、瞑想って。だけど、なにか意図的にやらないといけない時がある。
ないところから意図的にやってみる。お手入れとしてのメソッドとしてやってみるか、ゼンタングルの描くということに、純粋に湧き出るものをアウトプットして行きたいっていうとろ、そこに欲に絡んだ意図が入るとちょっと違うんじゃないのっていう。
ゼンタングルも初めてやる人にまずやってもらうのは、白い紙に黒いペンで描くということ。これには一応、理由があって、白に黒だから、ここに色を入れると、色を使おうと考えてしまう。そうではなくて、考えるということを極力排除してシンプルに落とし込んだのがトラディショナルゼンタングル。白い紙に黒いペン。鉛筆は使うけど、白と黒の世界。というのが基本にある。でも基本から応用に行こうとすると欲が出ちゃう。
TM瞑想もそうだけど、ゼンタングルもそこに至るまでの、究極のアウトプットをするためのプロセスというのは準備されていて、なるべく意図が入らないような工夫はあるってこと?
ある。でも、その基本をやると、どうしても欲が出てきてしまう。
なんか、深いな。
面白い。
うん、面白いね。
コラボレーションで可視化する未来
今後も二人でやっていかれるのですよね。お二人それぞれの視点からいろんなこと見ながらコラボレーションして行く。このコラボに期待していることは何ですか?
私は具現化なんだと思う。瞑想は具現化されない。何度も言うけど、それが大元なんだから。そこから現れてくる多様性みたいなものには、出家するわけじゃないけどそういう感じがある。ひいては、こっちがいいあっちがいいということになったりもする。瞑想のその部分を具現化するやり方は多様性があっていいと思っていて、個人的趣味としては、そこはアーティスティックなものにしたい。でももう一つあって、サイエンスというか真実というか、でんじろう先生を否定しているわけではないけれど、でんじろう先生は真実を見せるという点では素晴らしい先生だし。その、見せるというか、表現を自分がする、知ってるよーじゃなくて、表現する術の一つとしてやっぱりアートで。
しかしアートというのは技術に上限があるから、それをアーティスト的な人と、美しいけれどできるっていう世界を自分が作れなくても作れたり、そしてそれを見て、誰かがインスパイアしたりという具現化みたいなことをしたい。
可視化に近い?
そう、可視化に近い。
瞑想というと形に定まらないものじゃないですか。出てくるわぁーっとしたものも人によって違うし。だけど、それが分かってはいるけど見えないから、それを可視化して見てみようみたいな?
現代アートでコンセクシャルアートとか体験型アートは、みんながみんなそれを理解しているわけじゃない。単にユニークだと言ってみたり、感想はみんな違って皆んないいよなんて言ってる。でもそれを重々踏まえた上で、あえて否定もせずに、可視化というか具現化のためにやりたい。
生きていくために瞑想するのであって、瞑想するために瞑想するのではないので。
その第一歩として、ゼンタングルに巡り合ったのは良かった。
ゼンタングルは、瞑想と違って生きていく上で必要かと言われたら、別に必要じゃない。だけど、一つ事例を挙げると、小学校一年生の女の子がずっと継続参加している。小学校1年生なんだけど、もの凄く集中してやっている。周りの大人が若干飽きていたとしても(笑)。
ゼンタングルを小1の女の子がやり続けることで、その集中力というか、どういう変化が起きていくのかを見ているのは面白いなと。
描く工程ということに近いね。
もしかしたら子供だからこそ本質的なところを感覚的にわかっているのかな、とか。
ゼンタングルをやることで集中力が出てくると、日常生活でも集中しやすくなるのかなと思ったり。そこはわからないですけど。
今時の子どもや大人もそうなんですけれど、色々できない、続かない、集中できない人が多い。実はTM瞑想の「子どもの瞑想」は、瞑想自体はわからなくてもわかるという究極の瞑想。自分にとって必要で究極の抽象性を理屈抜きに理解できるようなところがある。でも中には、子どもなのにこれが苦手な大人っぽい子どもがいる。そういう子どもは、ゼンタングルがわかりやすい。なので具体的なゼンタングルに夢中になるのも納得します。形から入るからわかりやすいし、手応えがある。これがある種の瞑想効果。
アートのものすごい才能を発揮している人って、点描やったりちぎり絵やったり、ものすごい集中力じゃないですか。ひたすら表現することに集中していて。入口とかきっかけとか千差万別多様性があっていいと思っている中に、今日二人のお話を聞いていて、なるほどなと思ったのは、子どもの方がより素直だから、自分がやりやすい方法で心地いいことを意味とか考えずに、たまたま巡り合ったからやる。集中力もそうなんだけど、これからどんな表現になっていくのかなとか、瞑想から始まってアイテムを手に入れた人がどうなっていくのかなというのは興味があります。
確かに、ゼンタングル講習に参加する人には子供もいるんだけど、大人と子どもで明確な違いは、一番最初に描き出すときに「自由に描いてください」と言うと、大人はほぼ全員が一回は止まるんです。「自由ってどうすればいいの?」って。「自由」ができない。描いていくうちにだんだん自由に描いて行くんだけど、子どもは最初から全く何の迷いもなく描き進めていく。いろんな知識が入ってくると、ちょっとその「自由」っていうのも考えてしまうのかな。
さっき言ってた枠に近いのかもしれないですね。長年のしがらみがで培ってきた枠がないっていう。
例えば「楽に座ってください」って言われたらどう座ります?
そのとき楽な格好になります。ただ、大人なんでTPOは考える。
実はTM瞑想は「楽に座ってください」から始めるんですけど、「楽に座るってどういうことですか?」って質問が来る。「楽」ってわからない。「自由」もそうだけど。本当に私たちってそれくらい「枠」に入ってる。
枠。ありますよ。お好きになさっててください、って言われると身の置き方に迷っちゃう人がいて。状況の経験値かなと思ったこともあったんです。場数を踏んでるとか。どれだけいろいろなパターンを自分がどれだけ経験しているかで違う。だけど、あんまり、今までの世の中って同じで、特別変わった経験とかさせなくて、みんな横並びに押さえてきて、着るものも一緒、動く時間も一緒、勉強するものも一緒ってやってきた中で、さあ自由にやれって言われたら、そりゃあ困る人もいるだろうなと。
TM瞑想のことになりますけど、楽に座ってくださいと言われて、楽にしてると雑念が出てきて、それがTM瞑想だと言われても、は?みたいな感じになってしまう。つまりカスタマイズされてるから。そこで行き着くような、実は人間は太古の昔にできているのに、なんか外へ外へ、何かをしようしようとなっていて、自由とか楽とかそれができないから、今、TM瞑想をやろう。そしてまた情報もあって、雑念考えちゃいけないんでしょ?みたいな、今本当に情報があるから、座り方とか息がどうとか呼吸がどうとかあるんですけど、っていうくらい歯磨きどころじゃない状態を使っていくというやり方として面白いかなと。表していくとして。
これからやっていかれるということで、回を追うごとに違うと思うし、変わっていく。
楽しみです。
良い出会いだったと思います。
ありがとうございました。
今回対談にご協力いただいたお二人
CZT#29 山田 美幸さん
北陸初のゼンタングル認定講師(CZT)として、金沢を中心に北陸で活動中のゼンタングル認定講師。
- ブログ:https://www.m-graffiti.com
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- LINE公式アカウント:Mimi Tangle
アンカーウーマン金澤代表 髙木 真澄さん
キャリアコンサルティングの他、オフィス業務のアウトソーシング会社顧問、研修会社の研修企画コーディネーター、厚労省委託の就労支援事業所でのキャリア形成支援カウンセラー、女性起業支援、各種研修講師、グラフィッカー(グラフィックレコーディング)など、人と組織を幅広く応援している。
- アンカーウーマン金澤:https://awkanazawa.com